REM - ! - pre





――隣に眠る者がいる、これは幸いなことだ

 1号の静かな寝息を聞きながら、雪はふとそんなことを心の中で呟いた。


   ◇


 雪と1号の二人が未知の危険な土地に放り出されて以来、探索や戦闘など様々なことで必死な状態が続いている。余計な事を考える余裕が無い。それは雪には却って幸いだった。不安や恐怖を意識せずにいられる。
 空腹は常につらかったが普段から鍛えていた甲斐があり、体力はまだもっていて動ける。

 時々、比較的安全な場所を見つけてキャンプ――といってももっぱら野宿だが――をするとき、だいたいは疲労が一気に噴き出してあっという間に眠りに落ちる。緊張を解ける状況となれば少しでも休んで回復しなければいけない、雪が今までの経験で身に付けたスキルだ。
 ただ、夜中に目を覚ますことは何度もある。完全に緊張が解ける訳ではない、いつ何が起きるかわからないため何かしらの音や雰囲気の変化に反応する。目が覚めてしまったときは安全を確認し、問題が無ければ再び休む。
 その眠りにつくまでの小さな安堵を得た隙間のような時間に、雪はさまざまなことを考えてしまう。
 それが今だ。
 これまでの経緯、現状、兄について、1号について。答えのあるものはそれを再確認するように、そしていくら考えようと答えの無いものもあったが思考はめぐった。


 兄の起動したアケローンの河について、雪にその原理や詳しいことはわからなかったが、どういったものなのかは教えられていた。その一つとしてエデンから地球へ即座に到達することが出来るものだと。
 そして万が一の可能性としてその河で目的地に辿り着けない場合はどうなるかも……

 兄のやることに間違いなどあるはずがない。とすれば、何かしらの予期せぬ事態が起きたとしか考えられない。外的要因、いわば事故に遭い被害を受けたという状態だろう。

 そしてその万が一という状況に陥っている現在。
 生き残って帰るために、動かず何もしないでいるわけにはいかなかった。現状を把握し、帰るための手段を探す。生存と安全を確保しつつ、これらを行わなければならない。
 あまりにも何もかも不明で手探りだった。
 だから雪たちは非常にオーソドックスな旅を地道に始めることになった。
 闇雲に動いては無駄が出る。気になった場所を記録をつけながら調べて進んで行き、得体の知れない敵に襲われれば応戦し、倒した敵から、またある時はその地に自生する植物から、生きていくために必要なものを得て命をつないだ。
 テント樹林の近辺について探索を始めてある程度の日数が経過したが、未だ帰還のための目ぼしい成果は得られていない。

 こんなにどうしようもない状況は初めてだ、という思いを雪は抱えている。
 軍に所属しているから危険なことはいくらでもあった。それについては運と、自らの力次第だった。
 帰る場所も帰り方も常に把握して自らの手の中にあった。自分の居場所がわからないということなど今まで無かった。
 空間における位置も、時間における位置も、何もわからない。
 下手をすれば次元や界さえも。

 こんな状況で、どれだけの時間を過ごすことになるのかわからない。数日かもしれない、数年かもしれない、一生かもしれない。
 それだけの時間をたった一人で過ごすことになっていたとしたら、それはどんなに恐ろしいことだろう。


 闇の中で雪の視界に入る者。
 1号のことを思う。
 雪の傍らで静かに眠っている、その姿を正視するでもなく瞳の端に映しながら。
 
 まだ信用など出来ない。今は自分と協力すると言っているが、兄については何も言わないでいる。復讐をやめる気など無いのだろう。自分はともかく兄を狙っている、やはり危険だ。
 今は共に行動することを求めてきているが、自らの復讐を成就させるための選択であり、理性というよりも打算だろう。そのおかげで雪は命拾いをしているのだが。
 雪は命を助けられたことを知っている。
 この地に投げ出されたとき、最初にいた場所を調べたく連れて行くように1号に言った。しぶしぶながらも1号は来た道をたどったが、テント樹林の端でその先へ進めなくなった。とても人の生きていかれる環境ではない。
 そこから続く足跡と、何かを引き摺った跡――おそらく気絶していた俺だが――が遥か先まで続いていて、その果ては見えなかった。この過酷な状況の中を、自分を連れて安全を確保したのだ。
 (なんであっさりと殺せるときに殺さなかったんだ、チャンスだっただろうに)
 怪生物ならケダモノらしく後先など考えずに己の欲望のままに動けばいいものを、中途半端に人間らしいそぶりをする。
 …………結局自分だって1号を仕留めていない。ここに辿り着いたのが自分ひとりだってなんとかしただろう、なにをこんな奴の言いなりになって一緒にいるんだ、理性に基づいた判断だと? まるで言い訳だな――
 思考が感情的になっていき、それを払うように雪は頭を振る。
 危険な存在だ、殺すよう命じられている、大義名分だってある。
 でも命の恩人なんだ。
 よくわからなくなってくる。

 そのまましばらく雪の中で考えがせめぎ合ったが、疲労のため思考が続かなかったのか途切れてふっと力が抜けた。
 内側へ向かっていた意識が解放されて体外の刺激を知覚する。
 音。夜の森の音と、眠る1号の息の音。

 雪は単純な気持ちで思う。
 隣に眠る者がいる、これは幸いなことだ。

 同じ言葉を話して、意思の疎通が出来る相手がいる。
 自分の発する言葉、自分の行動、それらを受け止めて記憶し、時には返してくる。
 愚痴でも不満でも怒りでも、なんでもいい。
 生き残り帰還するための算段や作戦、推測を話し相談する、なんでもいい。
 自分の言葉と存在がただ広い空に飲み込まれて消えることなく、鏡の前にいるように自覚できる。

 人の形をした怪生物のはずなのに…………


 ふと、雪の思考の中に再び兄の姿が現れる。
 正直なところ雪にとっては考えるのがつらかった。色々と考えてぐちゃぐちゃになって収拾がつかなくなり、つらさばかりが残る。
 ここへ来てから兄について思うたびにそうなることがわかっているのに、思考が動き出せばとめようが無かった。
 
 兄は無事だろうか、怪我を負ったり危険な目に遭ってはいないだろうか。
 地球に到達できているだろうか、時間のズレは生じていないだろうか。
 答えは無い、わからない。今はただひたすらそれを願って信じることしか出来ない。
 何故はぐれてしまったのか。
 あの時、いつにない強い力で兄に体ごと引かれて共に河に飛び込んだ。雪もしっかりとその手を握っていたはずなのに。あの空間で意識を保つことなど出来ないと知っていながらも、自らの失態のようで悔やまれた。
 兄と離れた事がさみしく、悲しく、恐ろしい。
 胸が締め付けられ、苦しくなってくる。
 痛い、息が苦しい。
 無事を願う気持ちと、傍にいられない自らのつらさがどちらも主張した。


 雪の心はひどく乱れたが、やはり心配する気持ちが勝った。
 改めてアケローンの河について考えて少しでも兄が無事であることの判断材料を得ようとしたが、雪の知識では限りがあり困難だった。およそ理解できるものではない。まして制御するなど常人の域を超えていなければ、兄の他には無理なのだろう。
 そんな河での事故……
 
 今の自分は生き長らえている、奇跡的なことなのかもしれない。所在はどうであったとしてもだ。
 そして一人ではなく、ほぼ同時に河に飛び込んだとはいえ同じ時と場所に辿り付いた1号がいる。これは更に奇跡的なことなのではないか。望まない縁ではあったが、命を繋いでいられるのは事実だ。


 ひとり……と心の中でその言葉を反芻する。言葉に兄の面影が重なる。
 兄のことをいつも想っていた。
 兄へ自らの想いをぶつけるばかりだった。同じ気持ちを兄からも得たかったがいつも叶わなかった。それが雪の心を悲しませた。雪の生きてきた時間において、兄へ抱く想いは雪の心に幸福をもたらしたが、常につらくさみしい気持ちが伴っていた。
 でも、遠く離れた今になって思う。
 兄はいつでもやさしかった、いつでも待っていてくれた、いつでも自分の兄でいてくれた。
 自分を拒んだことなど無かった。
 兄に自分の気持ちを送るだけでなく、ちゃんと返されていたのだ。
 先程の1号について考えていたことから帰結したようで少しだけ複雑な気持ちがしたが、あまり気に留めずに流した。
 ……過去の自らの気持ちを否定するつもりは無い、さみしいと感じていたのは事実だから。
 でも――――
 
(兄さんの気持ちを気付けなくてごめん、兄さん………)

 そう思った途端、涙がこみ上げてきてあっさりと両の眼から零れ落ちた。
 感情が昂ぶり過ぎてしまったのだろうか。でも痛みではなかった。悲しみでもさみしさでもなかった。心を満たしていたのは兄への感謝の念だった。
(兄さん、………ありがとう…………ありがとう……)
 ありがたい、という気持ちで涙があふれる。
 今まで本当にひとりになったことなど無かったのだ。
 涙がこぼれる。
 そして今も……
 涙がこぼれる。
 涙で滲んだ視界に眠る1号の姿を捉えて、また涙がこぼれる。
(1号……)
 本当のひとりがどんなものか想像できない。
(1号…………あり…が……)
 心の中ですら、最後まで言い切ることは出来なかった。言葉を脳内で形にすることが。
 そんな風に思いたくないという気持ちが阻んだが、既に心は形を成していた。
 どうしてこんな気持ちになったのか解らない。
 涙は止まらない。
 涙は感情を増幅させ、感情が涙を更に呼ぶ。この繰り返しに翻弄されて涙がとめどなくあふれた。
 ただ涙が流れるだけでなく、声が出そうになった。
 1号がすぐ近くにいるから、必死に抑えた。
 ある程度の安全を確認してキャンプ地を選んでいるとはいえ、深夜に1号の傍を離れては自分と1号の身に危険が迫ったときに対処しづらくなる。だからその場から離れられなかった。
 声を抑えても息が乱れた。
 息の音さえ漏らすまいと、息を殺し、最後には息を何度も止めた。
 苦しかったが、涙と一緒に大量の感情が流れた。
 ひとしきり泣いておさまった後、心がほんの少しだけ軽くなった気がした。


 やがて雪は心身の落ち着きを取り戻す。
 意識が冴える。
 そして決意を新たにする。
 なんとしても帰還して、再び兄に会うと。
 たとえ時空が隔たっていたとしても、絶対に乗り越えてやると。

 泣き言はもう言いたくない。また心が言い出すかもしれないけれど、この気持ちを忘れずにいよう。
 願わなければ、望まなければ何も始まらないのだから。