足を止めて振り向いた瞬間、雪に顔面を殴られた。
 衝撃で脳が揺れ、視界が回る。
 後方へ倒れそうになったが堪えて踏みとどまる。
 本気で殴り掛って来たようだ。
 まともに食らったがこれはいい、先程の侘びだ。
 続いて左足がフッと高く上がり振り下ろされる。
 これは避けて後ろへ跳び距離をとった。

「なんだよ、殴られに出てきたんじゃねえのか?」

 雪は構えたまま挑発的な眼差しを向けてくる。

「これ以上殴るかどうかは話を聞いてからにしてくれ」

「なんかそんなことを言ってたな。まぁいいや、言ってみろ」

 意外にあっさりと雪は攻撃の手を止めた。

 夜明けにはまだ早い、東の地平線がうっすらと白みかけた空の下。
 先程、ピアーと亜衣を残して雪と二人でテントから出てきた。
 木立の中を1号の後に雪がついて暫く歩き、声を出しても彼らの眠りの妨げにはならないだろう距離まで離れて足を止めた。

 わざわざ早くに抜け出すことになった経緯は、ちょっとした騒ぎになったからであり、その原因を作ったのが1号だ。
 眠る雪の首を1号が絞めた。
 という風に雪は思って機嫌を悪くしている。
 1号は彼なりに状況の説明を試みた。

 雪の寝顔を見ている内に、ずっと昔や月に落ちた頃を思い出したこと。
 今はもうしないが当時殺害の妄想をしていたこと、それは出来なかったこと。
 不意に当時の想像のように雪の首に触れる事を試したくなったら意外にも出来てしまい、更に昔の衝動をなぞるように手に力をこめたら止め難くなってしまったこと……
 所々で表情を変えながらも話を聞いてくれていたが、流石に気付かぬまま絞められた辺りでは露骨に嫌そうな顔をしていた。
 雪は雪でよく起きなかったものだと思ったが、それを言うとまた怒り出して話が進まなくなりそうだったので口に出すのは控えておいた。

「ふぅん、それでいきなり俺の首を絞めたってわけか」

「絞めることが目的だったわけじゃないが……絞めてたな」

「で、俺の貴重な睡眠時間を削ったって事か。いい根性してるな」

「まだ続きがある。オレは知りたい」

「何を?」

「どうして力を込めたいと思ったのか、どうして止められなかったか」

「俺は興味無ぇ、おまえの頭がおかしいだけだ」

「うーん……できればもう一回やってみたいんだが」

「バカかおまえは、やらせるわけねえだろ!」

「そうだよな……じゃあ、逆はどうだ? 雪がオレの首を絞める」

「ああ、おまえの言ってることがまったくワケが分かんねえが、
 絞められるんじゃなけりゃやってもいいか…いや、やっぱり面倒だ」

「やってくれ」

 雪の左手首を掴んで自分の首元へ持っていき、目を閉じた。
 首に触れたところで手を離すと、雪の手に少し力が込められた。

「フン……どんなもんだったっけなあ、さっきは」

 徐々に力が入り、息苦しさが増していく。
 雪の手が横へずれて、もう一方の手も添えられた。
 両手で首を掴まれ絞められる。

「ゆ…き…どんな、気持ちだ?」

「はぁ? 別にどうもこうもねえよ、おまえはどうなんだよ、
 知りたいのはおまえの方なんだろ」

 知りたいのは絞める側の気持ちだったのだが、雪に尋ねたところでそれは雪の気持ちだ、自分のものではない。
 だから雪の言うことは理に適っていると思った。
 自分がどう感じるか…。

「……苦しい、でも、殺されるわけじゃないから、安心ではある」

「そうとも限らないかもしれないぜ」

 目を閉じていて、分かるのは雪の手の力と、声音と息遣いだけだった。
 それでも表情は想像がつく。
 きっといつものように笑っているのだろう。

「多分、大丈夫だ」

 何かを言い返す代わりのように、雪の手が一際強く絞め付けてきた。
 さすがに苦しくなって瞼を上げた。
 目が合った一瞬、雪はほんの少しだけ驚いたような顔を見せた。
 けれどすぐに不敵な、自分によく見せるような表情に戻していた。

 手の力は尚も弛めない。
 無言で訴えても分かっていながら却下されているようだ。
 仕方なく雪の手首を掴み、首から遠ざけるよう促した。

「強い……」

「フフ…これぐらいじゃビクともしないくせに」

 そう言いながらも雪は若干力を緩めてくれた。
 視線がぶつかったまま、まだ自分の喉元は雪の手の中にあった。

 ひとつわかったことがある。
 おそらく、自分の行動で雪がどんな反応をするのか知りたかったのだ。
 しかしそれだけではない、まだ何かある。

 不思議なことに、今のような状況下において妙な嬉しさがあった。
 雪の両手に力強く捉えられていることが、苦しさと共に心地良い。
 もしかしたら首でなくても良かったのかもしれない。
 確かめたいと思い、右手で雪の頬に触れた。

「な……眼帯に触るなっ!」

 途端にカッとなる、雪の表情は豊かでとても分かりやすい。
 反応は想像出来るものだった。
 それに加えて、この眼帯は雪にとって大事なものらしい。
 いっそう触れられたくは無いのだろう。

「こっちならいいのか?」

 右手を下ろし、もう片方の頬を左手で包むように触れる。物は試しだ。

「違ぇよばか! そういうことを言ってるんじゃねえっ」

 雪の両手が首元から離れ、1号の手を払おうとした。
 それを避けながら手を引き上げると、雪の髪を逆さに梳くようになった。
 癖のある毛が指を滑り、最後に引っかかって撥ねた。
 冷たく擦り抜けた感覚が心地良く、下ろした手を見つめてしまった。
 名残惜しさが後を引いている。

「…ったく何がしたいんだか」

「……分かった」

「何が分かったって? 俺の言おうとしていることが分かったってのか」

「いや、さっきの疑問の答えだ」

「おまえの? えーと、なんで首絞めたくなったのか?」

「ああ」

「……で?」

「うん?」

「なんだったんだよ、答えは」

「いや……いい」

「いいじゃねえ、俺が聞いてんだ。
 一人で納得して終わるな、付き合っただろう?」

「言ったら雪は怒りそうだからいい」

「あのなー、そんな風な言い方をしたら余計に気になるだろう、
 いいから言え!」

「……怒らないかとか、怒ってくれるなというのは愚問なんだろうな。
 やってみないとわからないか」

「わかってるならさっさとしろ」

 視線を下方に彷徨わせながらどうしたものだろうかと1号は迷う。
 言うべきか、それとも確認も兼ねてやってみるべきか。
 正直なところ後者を選びたい気持ちが強かった。
 試せば結果はすぐに分かるだろう。そう思って顔を上げた。

「わかった。向こうを向いてくれないか」

「背を向けろって?」

 頷いて返す。
 雪は背を向け、首だけ振り返って横目で1号を見ながら言った。

「不意打ちは無しだからな、手加減抜きで反撃するぞ」

「ああ」

 答えると雪は向こうを向いた。彼の視界から自分の姿は消えた筈だ。

 一歩、もう一歩進んで雪の真後ろに立ち、背中から体を抱いた。
 少し細めで引き締まっていた。
 もう少し強く抱いて身を寄せると、体温と体の感触と雪の匂いが感じられた。
 思いの外愉しい。

 雪の反応は最初に微かな息か声が漏れたきりで、暴れる事も無く、跳ね除けられる事もない。
 こうしていても良いということなのだろうか。
 そんな解釈をして温もりを味わっていたら、雪は首を僅かに俯かせた。

「もういい…」

 ひと言だけ呟き、雪は1号の腕を解いた。
 もういい、か。
 先程までは雪が問い詰め1号がいいと言って抵抗していたのに、何故か逆になっている。

「オレはまだ言ってないが、いいのか?」

 雪は背を向けたまま、さっきよりも強い語調で言った。

「二度は言わない」

 肩越しに1号を睨み、「もうこんなことはするな…」と吐き捨てるように言ってテントの方へ歩き出した。

 一人残された1号は、雪の背中を眺めながら思う。
 どれを指しているのだろうか。
 首を絞めたことか、眠りを妨げたことか、それともさっき抱き付いたことだろうか。

 いずれにしても予想の範囲の内だった。
 雪が嫌だと言うならばしない方がいいのだろう。
 けれど、もしまたこんな気持ちが起きたら抑えるのに苦労が要りそうだ……気が付けば独りでに笑みがこぼれていた。

 知りたかったことが分かった、答えらしきものが見付かった。
 実際に試してみて、とても好い思いをしてしまった。
 色々と得るものはあったが、ある意味失敗だったかも知れない。
 こんな感覚は知らない方が平和だっただろうか…

 土を踏む雪の足音が徐々に遠ざかっていく。
 空の色は朝焼けに変わりつつあった。
 テントに戻ってもう一眠りするには遅い時間だ。
 雪は体を休めるか、それとも少し早い朝飯の準備を始めるだろうか。

 それにしても。
 あの時、雪を殺さないで良かった。生きていてくれて良かった。
 1号は心からそう思った。










REM - !




余談(反転)

妄想はいつもそれぞれ別物で考えているのですが、なんとなく以下のような流れのイメージが出来ました。書いた時期が違うので整合性は取れていません
絞首ごっこ…┬→???(非801ルート)
      └→本テキスト(801ルート)→1雪小話…→__は知らない…