「雪、ペガサスにジョブチェンジしないか?」
そんなことをピンク髪の暗黒野郎が言い出したのは、折しもマーラーワットへ向かう道でのことだった。
「ペガサス? とっくにマスターしてるじゃねえか。
それに今のジョブをマスターしてないんだから、
今日は俺は転職しねえよ」
今回の目的は1号の転職で、俺はパーティーを組んでるから付き合って来てるだけって訳。
「じゃあ、マスターしたら次はペガサスで」
「おい、人の話を聞いてたか? 必要無いからならない」
「うーん……そうすると他の獣ジョブは……」
「1号、なんだってそんなに俺を馬や獣にさせたがるんだ?」
せっかく人間に戻れたんだ、わざわざ獣に戻る気なんかありゃしない。
で、こいつはいったい何を考えている?
すぐに言葉は返らずに、思案している様子だった。
黙って暫く待つと、1号はぽつりとこぼした。
「ペガサスの雪とまた一緒に過ごしたり旅をしたいと思ったんだ」
「? 俺は今ここにいるじゃねえか」
違うんだと言うように1号はそっと首を横に振る。
「最近の雪はずっと人間ジョブだ」
「??」
「たまにダンジョンでペガサスに遭うだろう、あいつらは獰猛だ。
姿だけ見れば雪と似てるのに……
ペガサスの雪の傍はとても居心地が良かった」
懐かしがっているってことか……?
「雪の背に乗って駆けると世界が違って見えた、あれは忘れられない」
んんん……?
そういえば……俺に乗るのが好きだとか言ってたっけ、しかもその理由が「楽だから」って、本気か冗談か。
確かに乗りっぱっていうか乗せっぱだったなあの頃は。
ちなみに走ってたのは俺だ、おまえじゃねえ。
「真っ直ぐな角をまた見たいし、たてがみも撫でたい」
ああそんな事も言っていた。
馬の姿に憧れるのは構わないし、言われて悪い気もしないけど、元々の俺じゃねえんだよなあ。
あとは俺が馬になっていたのをいいことに乗って撫でて人をベッドやソファ代わりにして、好き放題やってくれていた。
人間の俺みたいにツンケンしてなかったからだよな。ってことは……
「つまり人間の俺より馬の俺の方が良いってわけか」
1号は一瞬ハッと目を見開き、視線をうろうろと彷徨わせた。
そのまま答えも反応も無い。フーン……そういうコトか。
「知ってるか、1号?
沈黙は言葉より語る、目は口ほどにものを言うってやつをなあ」
静かに、そして素早く腰の得物を掴んで1号の首に絡め、絞める。
咄嗟に首と鎖の隙間に片手を挟んだのは流石の反応だ。
「苦しい……」
「俺は大いに機嫌を損ねた」
「オレは何も言ってない」
「言わなくたって分かりやす過ぎるんだよおまえは!
俺にそう言うんだったらおまえが獣になれ!
ほら、四つん這いになってみろ」
鎖を手前に力強く引き下ろすが1号も踏ん張り堪える。
「オレは獣ジョブにはなれない」
「おかしいだろ、人外のくせに!」
この訴えは1号に向かってだけじゃなく、誰が決めたんだかこいつの転職能力・制限に対してな。
人間ベースで出来ているからだろうって? 知るか!
俺が獣ジョブになれるってのもそもそもおかしいんだよ!
暫くムキになって揉めたが決着はつかず、本来の目的――マーラーワット――を思い出して仕切り直す事になった。
覚えてやがれ1号!
◇ ◇ ◇
暗い廊下、揺れる青い光。
床に敷かれた絨毯は二人の足音を和らげる。
昼間とは異なりBGMが流れていない――館内は静かだった。
夜の水族館に行こうと雪に誘われたのだ。
夕方の閉館後に見学する事が出来るらしい。
ツアーのような形はとられておらず、中を自由に歩くことが出来た。
雪に付いて行きながら左右の水槽に目を向ける。
「面白いだろ」と、雪は楽しそうだ。
オレにとってこの風景は……良い想い出ではないが、懐かしい。
仲間達とこの水族館を建てたのは忘れるくらいだいぶ前だ。
小さな町の水族館というような規模だったはずが、いつの間に増設したのだろう、新しくきれいな別館が出来ていた。
ダンジョンで釣ったレアな魚や野生の怪生物を卸すことがたまにある程度で、鑑賞は随分久しぶりだった。
水族館は研究所に似ている。昔を思い出すし、あまり珍しさは無い。
自分から進んで来ようと思うことは無く、誘われたのはきっかけになった。
新館の入り口で、この先に見せたい物があると雪は言った。
まだ見たことの無い施設と雪の勧めという部分に興味を引かれ、期待を膨らませつつゲートをくぐった。
新館内部は天井が高く、広々とした空間だった。
巨大な幾つもの水槽と、大きなガラス張りになった壁。
昼間に来たら明るく、いっそう開放感があるだろう。
順路を歩いていくつめかの大きな部屋には深い水槽が横に並んでいた。
一つ一つの幅はそれほど広くないが数が多い。
魚を眺めて、水面を見上げて、一番端まで辿り付くと細い階段が設けられていた。
「こっちだ」
呼び掛けて雪は昇り始める。
すぐに追って上がった先は、いま見て来た水槽の真上――ガラスも格子も、何も隔てる物が無く水槽の上部が円く口を開けていた。
「…………」
こんな形の展示を見るのは初めてで、少し感心してしまった。
研究所でも水族館でも、水槽は自分と同じ高さにあるものだと思っていた。
天井が高いのもこのためか。
安全用の柵を兼ねたような手すりにぐるりと囲まれて、かなり間近まで寄れるようになっていた。
一番手前の水槽を見下ろすと、たくさんの小さな魚の背が揺らめいていた。
池や堀とも違って、底まで明るく見通せる。
水族館の展示ならではだろうか。
「昼に来りゃ飼育員が作業してるのを見られるぜ」
なるほど……こうして見方を変えると水槽も面白い。
1階を歩いてきた方向と逆に進んで水の中を眺めて行く。
忙しなく動く魚、眠っているのか殆ど動かない魚、様々な生態を真上から眺める事がだんだん楽しくなってきていた。
端まで戻ると、その裏側に先程は見なかった水槽があった。
階段を昇らずに歩いて行けば普通に鑑賞できるのかも知れない。
「ここは他のとちょっと違うんだぜ」
水槽前の手すりに肘をついて、雪が見てみろと視線で促した。
近付いて見下ろしてみると……魚の姿が見当たらない。
「ここは水だけか……?」
「いいや、底の方をよく見てみろよ」
更に身を乗り出して覗き込んで見たがやはり何も見えない、ただの青い水底があるだけだ。
「暗いせいってわけでもないよな、やっぱり分からなっ……!!」
グラリと頭が下がって体が中に浮いた、水面が眼前に迫って、落ちる!!!
ドボッと嫌な音が鳴った。
必死に水を掻いてどうにか頭を上にしたが体が沈む。
水面に顔を出して息を継ぎ、また沈み、また上がろうと必死で水を掻く。
今のオレは静かな館内で一人だけ騒がしくしているんだろう。
……雪に足を払われたんだ、間違いない。
水槽は深く背の高さを超えていた。
その上、魚どころか岩も珊瑚も置かれていない、空っぽで手掛かりも足掛かりも無いのだ。
「雪っ……!」
息継ぎの隙間で叫ぶ。
「ああそうか、ただの水じゃダメだよなあ、
重くて底に沈みっきりになっちまうだろうし。調整してやろう」
まるで他人事のように笑いながら茶色の大きな紙袋を引き裂いて、中身の白い砂をザラザラと水の中に入れてくる。
「なん…だ、何を入れたんだっ!! …っ?!!」
嫌でも口の中に入ってくる水の味が変わった。辛い……何なんだ!
「塩だ、害は無いから安心しろ」
塩……そうか、だからこの味か。
飲んでも平気かも知れないが、そういう問題じゃない。
大袋の中身全部を入れて、更に次の袋も開けて入れてくる。
多少は比重が上がるだろうが、溶けるだけ溶かしたとしても……確実に足りない。
「塩…じゃ、無理、だ! 浮けないっ…そ、れに…」
さっきからハァハァと息を継ぐのに必死だ。いい加減酸欠になる。
「食塩水っ…は…培養液じゃ…ない! 息が…っできない」
「ああん? 贅沢言うな、研究所仕様のヤツはお高いんだよ、
こんな所にあるわけねえだろ」
そう言い放つと雪はひらりと下に降りて、「外」からこちらを眺めて笑った。
分厚いガラスにドンドンと拳を打ち付けながら、水面に顔を出して声を張り上げる。
「助けろっ! …どうして、こんなっ…こと、を…するんだ!!」
「それは…………」
雪の言葉はそこで途切れた。
相変わらず随分と機嫌の良さそうな表情でニヤニヤと笑っている。
言い掛けて止めるのか?!
勿体ぶらずに早く言え! こっちはおまえの所為で溺れているんだ。
「水槽の中のおまえが好きだ。 ……こう言えばいいか?」
雪の言葉と、それはもう意地悪そうな笑顔を見て分かった。
この前の仕返しだ……。
人より馬の方が良いという話を雪は怒っていた。
だからオレも外より水槽の中にいるのが良いと言うんだろう。
なんて幼稚な行動を取るんだ……憤りを通り越して呆れてしまう。
気を抜くとまた体が沈む。
深く完全に埋もれて、水の中のオレと外の雪。
懐かしさと同時に憎しみも甦りそうなものなのにな……
とにかくまずは水から上がろう。
ガラス面を使えばなんとか行けるかも知れない。
深い水槽とガラス壁面と格闘し続けて数分後――
ようやく縁から這い上がることが出来た。思う存分に息をする。
髪や服から水が滴り落ちて辺りは水浸しだ。
「はぁ、はぁ……ゲホッ……しょっぱくて死ぬかと思った」
「そっちかよ」
いや、本当だ。
かなり飲んでしまったし、目、鼻、肌など身体中に染みて痛い。
「雪……」
「なんだよ文句か? やるのか?」
愉しそうにこちらを見上げて……まったくしょうがない。
それにしても――
いくら子供じみた振る舞いと言っても、やけに用意周到で手が込んでいないだろうか?
もしかして雪の目的は仕返しではなく、さっきの事そのもの――水の中にいるオレなんだろうか……?
研究所で過ごした永い年月とその頃の雪の姿を振り返る。
どんな思いで水槽の前にいたんだろう。
でも、オレはもう昔には戻れない。
フロアに飛び降りて雪の目の前まで歩み寄った。
笑っても怒ってもいないオレにつられて、雪も表情を固くする。
今オレがやるべきは、自分の気持ちをはっきりと伝えることだ。
覚悟を決めて語りかける。
「……雪の気持ちには応えられない」
「は?」
「好きだと言ってくれたのは嬉しいけれど、水の中は嫌だ、
もう戻らない、オレは外の世界で生きる」
「………………ば…っかじゃねえの! 冗談だ、判れっての!
あーあ、ほんとにおまえは出来損ないだよ」
雪の雰囲気が一気に変わり、顔がみるみる赤くなって行く。
冗談と言うからにはオレの考え違いだったか。
「何が冗談なんだ?」
どこからどこまでがそうなのか知りたい。
「う……それは……」
今度は戸惑いか。
「教えろ」
「うるせーな! もう黙れ、しゃべんな!」
……このパターンか。雪が騒ぎ出すとしばらく会話にならなくなる。
考えていることは時々分かりにくいし、オレはどう言えば良かったんだ?
仕方が無い……とりあえず雪をあの食塩水槽に沈めて気を晴らすとするか。
悪戯をされたのは事実だし、雪の真意は分からないのだから。
不満と苛立ちいっぱいという顔でこちらを睨み付けてきていたが無視して肩に担ぎ上げる。
「ちょっ…、何すんだよ降ろせやめろ放せ!」
その場でUターン。
振り返るとガラスの向こうの水底はまばらに白く、溶け残った塩が溜まって残っていた。
暴れる雪を抱えて階段を昇り始める。
「雪なら浮くんじゃないか? なんなら塩を足してやるぞ」
水から上がった時、業務用の袋がまだいくつも積まれているのを見付けたのだ。
「全く同じやり方で返すってか! この野郎、もっと頭ひねってみろ!」
背後で雪が喚く。
腰を担がれて頭が下になって、文字通り頭に血が昇っているんだろう。
……雪の出方によっては行動を変更しなくもない。
あと数歩で昇りきって水面が眼下に見えるだろう。
タイムリミットはもうすぐだ。
REM - ! - pre
解説を含む余談(反転)
前半:遡ること数年前、1号は人間よりも馬の雪の方が好きなんじゃないだろうか?
なんて議論をある方としていました
1号は時々馬雪が懐かしくなり、かわいがってやりたくなるのだそうです
私は馬でも人でも雪は雪だって考えていてくれることと思います、思いたい
後半:ある夏の日、脳内雪さんが言ったんです
「あいつを水槽に突き落としてやりたい」って 衝動的だなー…
ご存知1号さんは体重150kgと見かけ以上に重いです
高比重で水に沈むだろうというネタをまたやりました、好きなんです
どこかで以前書いた気もしますが1号の比重は2強と想像しています、身近なもので例えるとアルミ弱相当
塩だと飽和食塩水にしても比重1.2行かない程度、しかも必要な塩は総重量の1/4強
今回の水槽を1万リットルと仮定して塩2500kg以上になるので大変です
あ…だんだん萌えない話題になってきましたよね…(しみじみ)