月の黒竜
巨竜の姿へと変異した私は、幸か不幸か幾つかのものは失っていなかった。
記憶、知能、言葉。
不思議なことに、このドラゴンの体は人間の言葉を発することが出来た。
一人で恐る恐る声を出し喋ると、かつての言葉を紡ぐことが出来た。
人間の時に聞こえていた自分の声よりずっとずっと低く重く、轟々と響き、掠れもし、威厳か、ともすれば恐ろしさを感じさせる声だった。
自らの言葉が通じる相手は誰一人としていない、人の言葉を話せていると錯覚しているだけかもしれない。
それでも、時には虚しさに涙しながらも、忘れる事のないように必死に、毎日一人で言葉を発し続けた。
掠れていた言葉と声は日々滑らかになり、上手く喋れるようになっていった。
誰かと話したい、話したい……心の底から渇望した。
ある日、一人の懐かしき太陽族がこちらに向かって歩いてきた。
いつもの様に、この岩のような巨体には目もくれずにすれ違うものだと思っていたが、意外なことに白い小さな生き物は私の前で足を止めた。
ぐっと首を真上に向けて、こちらを見上げ、私の目を見て言った。
「仲間」
私にはその太陽族が微笑んでいるように見えた。
太陽族はすぐにタッタッ……と私の後方へ駆け去って行った。
強い衝撃を受けて動けなかった。
ずっと独りになってしまったのだと思っていた。
私と同じ者はいない。
人間はいない。
人間である自分も失われた。
かつての仲間、人間であった者達も姿を変え、知能が退化し、逞しく生き残ってはいるものの、成れの果てだとさえ思うことがあった。
そんな彼らの一人が偶然か、はたまた意思を持ってか、私のことを仲間と言った。
まだ彼らには僅かながら言葉が残っている。
彼らが命を繋ぎ、この月に生き物の住める土地を作り、多くの雑多な生き物たちがここにはひしめいている。
どうにもすることの出来ない孤独に打ちひしがれていたが、本当の孤独には程遠いのかもしれない。
様々な感情が綯い交ぜになって、溢れて、私は涙した。
変異してから2年ほどの月日が流れた時の事だった。
無人島の(元)黒竜と眼帯男
早朝、集めてきた材木を抱えて拠点に戻ると、眼帯の男――今の私の唯一の仲間、雪――にひどく驚いた顔で出迎えられた。
「あんた……何やってんだ! 人間に戻ったばかりだろう!!」
雪はつかつかとこちらに歩み寄り、大量の材木をぶんだくると資材置き場に投げた。ぶつかって資材の山を崩し、ガランガランと盛大な音が鳴る。
――この島には不思議な力が働いているようだ。雪と私と二人でこの島に放り出された時、私は黒竜の姿だった。それが突然、どういう訳か人間の姿に戻ることが出来たのだ。それはつい昨日のことだった。二人して驚き、しばらく呆気にとられていた。
「ずっと堪えて……一人で胸ん中に抱えていたものが山ほどあるだろう!
続きは俺がやる、あんたは休んでろ!」
怒鳴りながら私の背中を拠点の中央に向かって押し出すと、一人で森へ分け入ってしまった。
彼の背を見送る。遠ざかり、その姿はどんどん小さくなり、やがて木立に隠れる。
怒りながら彼は肩を震わせて、瞳には涙がこみ上げていた。
あれが彼なりの表現の仕方で、どれほど自分のことを気遣い思ってくれているか、痛いほど伝わってきていた。
(私は大丈夫だ、雪……)
もう独りではない、かけがえのない仲間がいるのだから。
人間が絶えてはいないことも、知ったのだから。
ザッザッと音を立てて、足早に森の中を進みながら……雪は自分が月でペガサスから人間の姿に戻った時のことを思い出していた。
ワクチンを打たれて眠りに落ちて――――
(兄さん……兄さんっ………!!!)
心の中で叫びながら覚醒した。
瞳を開くと、横になっていた自分は何かに追い縋るように左腕を上げていた。
白い体毛に覆われた脚と蹄ではなく、人の腕と手と指がそこにあった。
人間に戻れたことへの安堵や喜びよりも、ワケの分からない心の痛みが強過ぎて涙が止まらなかった。
変異していた間の記憶は後に少しずつ、時間をかけて戻ってきたのだ……
雪は立ち止まり、側の木に寄りかかって泣いた。
ベガだって同じ目に遭って、自分よりも遥かに永い時を一人で生きてきた。
自らの思いと、彼が抱え続けてきたであろう辛さを、決して同じものではないと知りながらも重ね合わせて、彼のために、自分のために、涙を流す。
痛み、悲しみながら思うのだ。
ベガがいる、自分だって生きている。
何としてでも生き延びてこの島から脱出する、ベガを故郷に、仲間の元に帰してやるんだと。
(…………ベガ、人間に戻れて良かったな)
手の甲で涙を拭い、雪は辺りを見回して使えそうな資材を探し始めた。
REM - ! - pre