「頼みがある、付き合ってくれ」
 いつもとは異なる歯切れ悪い調子で言われて、1号が連れてこられたのは医学研究所だった。確か今月は定休月ではないかと雪に問えば、「だから来たんだ」と返された。
 2人で研究所の一室に入ると、雪はデスクのスタンドの明かり一つを点してこちらを向く。
「どうしたんだ、雪?」
「……おまえに頼みがある、ただでとは言わない」
 1号には話が見えないので黙って先を促す。
「今日は俺の言うとおりにしてくれたら、おまえの言うことも何か聞くから……」
「雪、具体的にどうしたらいいのかさっぱりわからない」
「それは……今から説明する……」
 今日の雪は普段と様子が違う。いつもみたいにはきはきとしゃべらないし、元気や覇気が足りない。気になったので言うことを聞いてみることにした。
「わからないけれど、わかった」
 雪はそれに頷きを返し、持ってきた鞄から何かを取り出した。いくつかのそれを両手に抱えて差し出してくる。
「これを着て欲しい」
 受け取って確認すると、白衣とワイシャツ、ネクタイ、そしてサングラスだった。綺麗に洗ってアイロンを掛けてあり、まるで新品のように手入れされていた。けれどサングラスだけは端の方にひびが入っていた。もしや――と思ってよく見ると内側に小さな文字が刻まれていた。それを読んで確信する、シキのものだと。
「それから着けろ」
「え?」
「サングラス、今手に持ってんだろ」
 言われるままにサングラスを掛けると、元から薄暗かった部屋は更に暗くなった。望んでいるらしいからとワイシャツに袖を通してボタンを留めた。ここまではよかったがネクタイの結び方がわからない。首に掛けたまま困っていたら雪が手際よく締めてくれた。器用さに感心しつつ白衣も羽織ってその次の指示を待った。
 言葉無く手を取られ数歩移動し、ソファに座らされた。1号が身を沈めると膝の上に雪が乗ってくる。意図はまだ読めない。
「抱っこして……」
 雪の一言に違和感と驚きを感じた。口調も言うこともおかしい。けれど雪は何を気にする風でもなく、1号に抱きついて体を摺り寄せてきた。とりあえずと1号も雪を抱き返す。もたれかかる重さと共にぬくもりを感じて、自然と手が滑り雪の背を撫でた。
「そう……撫でて、もっと撫でて」
 まるで甘える子供のようだった。請われるままに雪の背や髪を何度も撫でた。1号の手に雪は嬉しそうな仕草を返した。その姿に切なさを覚えた、それが雪の気持ちなのか自分の気持ちなのかは定かではなかった。頼みとはこれなのだろうかと考えたが、それを問うことは躊躇われたのでただ名前を呼んだ。
「雪……」と小さな声で呼びかけながら撫で続ける。雪は顔を上げず何も応えなかったけれど、ずっと身を寄せて時折白衣の襟やワイシャツを掴み、ゆるゆると手を開き、そんなことを繰り返していた。
 穏やかな様子の雪に1号の心も安らぎあたたかく満たされたが、埋まらない隙間があった。サングラスに刻まれた文字を思い出す。
「愛する弟、雪……」
 その言葉を口にしてみると、雪はワイシャツに顔を埋めて静かに涙を流した。声を立てず息も乱さず、少しだけ肩を振るわせてシャツを濡らしていった。やはり――と感じる、解っていたことではあるが雪が見ているのはシキのようだ。たとえそうだとしても今の自分に出来るのならば雪を慰めたい、そう強く願って抱きしめて、思いが伝わるようにと体に触れていった。
 しばらくの時が経ち、ようやく雪は顔を上げた。もう涙は止まっていた。ひとしきり泣いて落ち着いたのだろうかと安堵する。その表情を眺めていると雪は体を少し起こして顔を近づけてくる。
「兄さん……」
 囁きを聞いた直後、唇が重ねられた。始めのうちは何度か触れるだけだったが、すぐに深いキスになった。雪が求めているのはシキなんだ――そう思いながら口づけを交わしていたが、次第に体の感覚と心地良さに飲まれて思考らしきものは薄れていってしまった。
 しかし本格的に流されるにはまだ遠い辺りで、雪の方から口づけが解かれた。1号の頭を抱え込んでいた腕が緩められ、その手でサングラスを外される。薄暗い部屋の中でもより一層の暗さに慣れた目には雪の顔がはっきりと見えた。
「1号」
 自分の名を呼ばれて1号は涙がこみ上げるのを感じた。零すには至らなかったが、感情による涙など久しく忘れていたことに気付く。脱走して、仲間が出来て、しばらく忘れてしまっていた。何故急にこんな気持ちになったのだろうと不思議に思う。雪の泣いていたのがうつってしまったのだろうか。
「おまえが兄さんのこと、どう思ってるか知らないわけじゃないんだ……けど、何も言わずに頼みを聞いてくれて……ありがとな……。他の奴には恥ずかしくてこんなこと頼めなかった、それにおまえが一番俺と兄さんのことを知ってるから……」
 雪はさみしかったんだな――そう思ったが、口にするのは止めておいた。
「……これで少しは助けになったのか?」
「ああ」
 短く応えて、雪は白衣の前を開けて1号の肩から落とし、ネクタイを緩めてワイシャツのボタンを外しながら口を開く。
「1号、俺のこと抱きたいか?」
「……機会が得られるなら」
「なら今からそうしてくれ」
 肌蹴られた胸に雪の唇が落とされる。
「シキに抱かれると思えば慰められるのか?」
 動きを止めて雪は1号と視線を合わせる。
「いや……今日はもう兄さんとは呼ばない、おまえは1号だ。最初からちゃんとわかってやってたんだからな。おまえが求めてくれるなら、俺は……」
 1号はまた涙がこみ上げるのを感じた。嬉しいのか悲しいのか解らない、或いは両方なのかもしれない。
「雪……そんなことしなくたってオレは雪を仲間だと思ってる、いつも一緒にいたいって思ってる」
「いっつも聞いてて恥ずかしくなるようなことばかり言うよな……でも、今はうれしいぜ」
 雪ははにかんで笑った。
「ただ……雪がいいって言うならエッチは好きだからしたい」
「おまえのそういう正直なところは嫌いじゃないぜ」
「オレのこと好きってことか?」
「さぁな、少しはてめぇで考えろ」
 雪が普段の調子を取り戻してきている、そう思うと嬉しさが1号の胸を満たした。
「とにかく、やると決めたらしのごの言わずにさっさと始めやがれ」


 1号はゆっくりと体を重ねていった。雪は1号の下で気持ち良いと何度も口にして、やがて涙を静かに流し始めた。
「なんでそんなに優しくするんだ……いつもみたいに激しくやれよ」
 優しくしたいし、雪もそれを求めてると思った。けれど望まれるのならばと言葉に従う。快楽を求めて動けば得られたその先が更に欲しくなり、夢中で体を貪ってしまう。雪は尚も涙を流していたが、もう1号の心は痛まなかった。どんな気持ちでいるのか本当のところは解らなかったけれど、1号には雪が先ほど顔を隠して泣いていたときよりも、つらさの影が潜めているように見えた。
 熱が上がるにつれて、雪に何度も体を引き寄せられた。少しでも余すところなく触れ合うことを求められているようだった。しがみつかれて密着したまま、体の中も外も何度も擦り合わせた。
 雪は先に達したが構わずに動き続け、気が付いたら最後は顔に掛けていた。
「1号に犯されてる……」
 うわごとのような微かな呟きに気付くと、雪はたまらなく色気のある表情を浮かべていて、1号ははっと我を取り戻す。
「すまない、雪……」
「いいんだ、俺が望んだんだから……」
 雪の顔を拭いながら思う。雪は普段は決してしないような振る舞いを沢山した、見せない顔をいっぱい見せた。シキのことで1号が思う以上に気を弱らせていたのかも知れない。みんなの前ではいつもの強気でしっかりした雪で、がんばっていたんだろう。無理するくらいなら、甘えることで気が済むなら、いくらでも好きにさせてやりたい。雪の……仲間の悲しむことは少しでも減るといい。
「おまえの願い」
 力のある声が1号の思考を途切らせた。
「今度はおまえの言うことを聞く番だ、なんか願いか頼み、言え」
 ここへ来た最初のときの雪の言葉を思い返す。雪にして欲しいこと、願うこと……考えてみるけれどうまく出てこない。何を求めるか。ずっと一緒にいたい、仲間でいたい、しかしそれは自分で叶えるものだ。
「別に無い、それに無理にオレのいうことを聞かなくたって構わない」
「もうちょっと考えてみろ」
「……雪に無事でいて欲しい」
「そんなのすぐに叶えられないだろ、今出来そうなことを言え!」
「本当にそれ以外に思い付かないんだ、難しいことを言うな、雪は」
「借りを作ったままにするのは性に合わねえんだよ!」
 そうとう気が済まないらしい、雪がだんだん苛々してきていることがわかる。――と同時に、強い語調からつい先ほどまでの彼らしくない態度を打ち消したいのだろうか、という印象を受けた。強がりかもしれなくても、力のある目の光を見ていると嬉しいし、そういう雪が好きだと感じる。
「そうだ、組み手がいい。久しぶりに本気で雪と手合わせしたい」
「ほーぉ、そんなんでいいのかよ」
 雪は目の色を変えた。
「ああ……もちろん傷つけるためじゃないが、雪と戦うのは興奮して気分が良いんだ」
「ハハ、ブッ倒されてもそう言えんのかよ」
「オレが負けるって決まってるわけじゃない、研究所を出てからだいぶ強くなった」
「それはまぁ認めるが、俺だって腕を上げてんだ、第一おまえと違って戦闘においちゃプロなんだからな」
「雪、うれしそうだな」
「ああ、気分が乗ってきた」
 雪は左腕を上げてぐっと手を握り、肘を曲げて甲の側を見せる。
「じゃぁ、決まりだな」
 1号も同じように腕の形を作り、雪のそれとぶつけた。かたくじんと痺れる感触が広がった。
「まぁ……明日以降な」
「そうだな」
 雪の体をそっと抱きしめる。
「今日はこのまま甘えてていいんだぞ」
「うるせー、もう終わりだ!」
 そう言いながらも雪は逃れようとせず、しばらく1号の腕の中に居続けた。










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